松山市郊外の段々畑。遠くに海もみえる農道脇に、樹齢65年のイヨカンの老樹はあった。「この辺りの枝に、ビー玉ほどの実がなっていたんです。
まわりはまだ大豆粒ぐらいだというのに…」宮内義正さんは当時を振り返り、こう語った。
昭和29年の6月。後に「宮内イヨカン」と命名された品種の〈枝変わり〉を見つけた時のことである。除草の帰り、ふとその枝に目がいったのだという。
サラリーマンから果樹農家に転身してまだ5年、新鮮な彼の感性がこの大発見につながったのだろう。
そもそもイヨカンの栽培は明治22年にはじまる。道後の苗木商三好保徳が山口県から導入した穴門(あなど)ミカンがその起源だ。松山付近で栽培が増え、
はじめ「伊予蜜柑」と呼ばれていたが、昭和になって改めて「伊予柑」と命名されたという。
もっとも、かつてのイヨカンは香りはよいが酸味が強く、人気もイマイチだった。栽培もむずかしく、せっかく実がなっても生理障害で落ちてしまう。
「イヨカンつくりは貧乏する」と、農家にも敬遠されていた。
愛媛の空と海に宮内イヨカンの橙(だいだい)色が映える
宮内が枝変わりを見つけたのは、こうした時期だった。地元の温泉青果農協も優良品種さがしに熱を入れていた時期でもある。早速、
農協や愛媛県果樹試に連絡して調査したところ、在来種より1ケ月近く早生で着色もよく、豊産性であることがわかった。風味がよく、
酸味が少ないため甘く感じる。果皮が薄く、種も少ない。農協のすすめもあって種苗登録されたのは昭和41年。新品種宮内イヨカンが誕生した。
宮内の活動はさらにつづく。農協の協力を得て大量の苗木を生産し、低価格で仲間の農家に分譲した。ちょうど温州ミカンの生産過剰が健在化し、
昭和43・47年の大暴落を招いた時期である。これを機に宮内イヨカンに切り換え、危機を切り抜けた農家は多い。地元の平田地区などは今では全国一の産地となり、
高い評価をうけている。イヨカンの生産が急増、全国の消費者の食卓に上るようになったのは、この後、昭和50年代からだろう。その9割が宮内イヨカンである。
平成6年現在、全国のイヨカン栽培面積は1万ヘクタール余り。その7割を愛媛県が占める。自由化時代の良品質のかんきつとして、地域農業を担う特産物として、
宮内イヨカンに寄せられる期待はこれからも大きいだろう。それにしてもその原点となった品種改良が、他ならぬ地元の農家自身の手によって成し遂げたとは、
なんともすばらしいことである。
宮内は74才。今も奥さんと二人で1.7ヘクタールのイヨカン園を経営する。イヨカンが詰まったコンテナを「えっこらさ」と軽トラに積み上げる元気さだ。
「義正サもがんばってるんだ。俺たちもがんばらにゃー」と、近所の農家の励みになっているという。
|